【歴史上の偉人とSDGs】上杉鷹山とSDGsを考える

直江兼続は勉強中だけど、上杉鷹山のほうが、SDGsが目指す世界との親和性があると思う。

米沢駅にいる上杉鷹山公の絵
米沢駅にいる上杉鷹山公の絵

上杉鷹山は、ジョン・F・ケネディが尊敬する人として名前を挙げたことで有名になった?人物。上杉、米沢藩9代目藩主であり、「為せば成る 為さねばならぬ 何事も 為らぬは人の 為さぬなりけり」とうたった人物で、簡単に言うとエライ借金まみれの米沢藩を立て直し、借金を返した敏腕経営者。

新品の金物の金属臭さを取るために「上杉」と書いた紙を貼るのだという噂が流れるほど、8代目が領地を返納しようと考えるほどの借金だったらしいが、そもそもなぜ上杉藩がそんなに借金抱えることになったのか、は今回は割愛。

んな状態で武士も領民も悲壮感漂うところに、上杉鷹山が入城した。白子神社で決意を表明し、約20年超にわたりさまざまな改革を行った。

白子神社
白子神社

大きくは「財政改革」「産業改革」「人材改革」の3つ。これらの改革で培われた文化は現代の米沢市、置賜地域にも根付いている。直江兼続が米沢藩のハード面のインフラを整備したといえるとすると、鷹山は置賜地方のソフト面のインフラを整備したといえる。当時の文化が今の自分たちの生活や考え方にも影響しているということは、その考え方が現代にまで通じる「持続可能なまちづくり」=SDGs目標11「住み続けられるまちづくりを」につながるものだったと言える。

たとえば、「産業改革」。米沢織をはじめとして、置賜紬は山形県の伝統的工芸品にも選ばれている。ほかにはこけし、駒などの木工品、笹野一刀彫、原方刺し子、成島焼き、相良人形、深山和紙、など、現代では需要の変化で数が減っているものの、たくさんの工芸、産業がある。鷹山は、それまで紅花や青苧を生産して出荷するだけの「第一次産業型」から、製糸、染め、織り、装飾まで手掛け反物や着物として出荷する「第三次産業型」まで組み合わせた生産体系とすることで、藩外への出荷製品に高付加価値をつけることに成功した。

また食の面では、「ひょう」を筆頭に、食べられる生垣「うこぎ」の栽培、食用としての鯉の養殖など、石高に対して人口が多い米沢藩の胃袋を満たすためにあらゆる手段を講じた。これらの食文化ももちろん現代の米沢、置賜地方の食文化として定着している。

うこぎ

「人材改革」では、現在の愛知県から細井平洲を呼び寄せ、廃校化していた米沢藩に藩校興譲館を設立、身分を問わず学ぶことのできる場所をつくった。興譲館は現在も山形県内有数の進学校であり、これまで多数の人材を輩出している。

藩校のイメージ

他にも、鷹山が行った改革は数知れないほどある。それぞれ逸話も残っているので文献を見ると鷹山の人となりや改革の様子を知ることができる。もちろん最初から順風満帆に改革を進められたわけではなく、根強い反発もあったようだ。鷹山自身も危険な目にあっており、その影響で家来も数人処分している。ここではその詳細は割愛。

殖産興業も人材育成も、一日にしてなるものではない。財政がひっ迫している状況下において、むしろこの二つは財政をより圧迫する要因にもなりうるものであったが、鷹山はここには惜しげなく投資していたといわれている。代わりに、従者や女中を減らしたり、藩民に対し質素倹約を訴えながら自らも綿の着物に粥を食するなど、質素倹約を実践した。限られたリソースの選択と集中は、現代複雑で多岐にわたる深刻な問題がたくさんある中で17の大きな課題にリソースを集中させて課題解決を目指すSDGsの考え方に通ずるものがある。

また、最初のほうに書いたが鷹山は改革を行う前に白子神社で決意表明を行っている。決意とは自分の改革に対する覚悟でもあり、家来や藩民に対するビジョンの設定でもある。そして、「○年で借金を返す」などの明確な目標を設定した。これはビジョナリー・カンパニーと同じ考え方、手法でもあり、当時誰も返せないと思っている借金を具体的な数値目標で言い放つ、やり方は後で考えるという手法はまさにSDGsが「我々の世界を変革する」というビジョンのもと、2030年に向けた野心的な目標設定をしているのと同じことである。鷹山もバックキャスト思考で改革を進めていたのだと思う。

それぞれの改革とSDGsの具体的な目標とのつながりも考察したい。
つづく。

上杉鷹山は経営哲学の観点でもちょいちょい本になってる。その観点で知りたい場合は別の本もオススメだけど、まず鷹山の人となり、人生について知ってほしい。それを知るにはコレ。

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